第3章「夕張炭鉱(ヤマ)太鼓」
1)夕張炭鉱(ヤマ)太鼓の魅力と楽しみかた 
「夕張炭鉱太鼓」、読み方は「炭鉱=ヤマ」と呼びます。この夕張炭鉱太鼓は昭和48年に作られ、「ヤマの男の激しき力」を現して作られた曲になります。
この曲の魅力を語るにはどうしても「昭和48年」前後の時代背景を知ってもらう必要がありますので少し整理しておきます。(1)背景~昭和48年頃の夕張 昭和40年頃から始まった日本の高度経済成長ですが、夕張はその波に乗りきれてない状態でした。
炭鉱は劣悪な労働条件で、坑内の仕事離れが相次いだことや、採炭が高コストであるため炭鉱は苦しい経営となっておりました。それは、夕張の町全体が衰退してきているという事と同じであり、それに歯止めをかける特効薬はありませんでした。
そんな中、昭和48年5月に、三菱大夕張炭鉱が閉山となり、ますます夕張の町に暗い影を落とすことになったのです。
また、石油危機=オイルショックが日本を駆け抜けたのも個の年です。マクロ的に見るとオイルショックは石炭産業にとって追い風となるべきものなのですが、海外の露天掘り低コスト輸入炭と夕張の石炭の価格は比較になるはずもなく、石炭産業は終焉に向けて静かに進んでいた状態でした。
それでも、この当時の夕張は炭鉱にすがるしかなく、わずかな希望は数年後に創業が開始される北炭新鉱だったのです。そして、夕張太鼓としても、町の存続を願い、再び太鼓で炭鉱マンや地域の人々を鼓舞する必要があった年だったのです。
(2)夕張炭鉱太鼓の誕生
夕張太鼓は創設から3年を経過し、前述した時代背景のもと、夕張祈願太鼓以上に人々を鼓舞し、かつ炭鉱(ヤマ)の魅力を感じることのできる曲を作る必要がありました。
祈願太鼓の流れを組み入れながら、よりヤマの男の激しき力を表現し、生き生きと、そして炭鉱(ヤマ)の魅力を感じられる曲。祈願だけでなく、ヤマの男達や町の人々に対して強いメッセージを持った曲が2曲目のコンセプトでした。
炭鉱太鼓は、あえて昔の坑内の情景、かつての炭鉱マンが働く姿を表現することによって、炭鉱全盛期のヤマの男の激しき力を取り戻してもらいたいという願いを持った曲なのです。
(3)演奏技法と楽しみかた
夕張炭鉱太鼓は、夕張祈願太鼓をベースとしながら、打ち手一人ひとりが炭鉱マンの働く姿、激しき力を表現できるような曲の構成となっています。
それは、これまでの練習や演奏で打ち手の技術も向上したため、個人の太鼓演奏でも夕張太鼓を表現することが可能になった事によるものだと思われます。このことによって、夕張炭鉱太鼓は祈願太鼓と違った魅力をつくりあげる事ができたのです。
この曲は、最初、大太鼓から始まり、その後、宮太鼓の打ち手が祈願太鼓と同じリズム「ドン・ド・コ・ドン・ド・コ・ドン・ド・コ・ドン...」とたたきます。祈願太鼓と同じ出だしです。 ただし一つ違うのは、テンポが祈願太鼓よりかなりスローなことです。 そして、ここが炭鉱太鼓の最初の見どころなのです。
ゆっくりとしたバチさばきは、身体の使い方、バチを振り上げたときの「ため」など、かなり高度な演奏技法が必要なのです。ここをカッコよく、しっかりとスローテンポでたたき、そしてヤマの男を表現できるかどうかで、炭鉱太鼓を演奏するのにふさわしい打ち手であるかどうかがわかります。夕張太鼓の基礎をきちんと習得できていなければ、この曲を演奏することはできないのです。ぜひ打ち手が練習を重ねて習得してきた夕張太鼓のバチさばきを見て下さい。
祈願太鼓のリズムが終わると、一人ひとりの掛け声のもと、激しく「ドン・ド・コ・ドン・ド・コ・ドン・ド・コ・ドン・ド・コ...」というリズムを順番にたたき、その後、個々の演奏に入ります。その演奏は、初めのスローテンポと打って変わって、早く激しいものであります。
しかも後ろで鳴らされるリズムは太鼓の縁をたたく、乾いた高い音であり、「コ・ドン・コ・ドン・コ・ドン・コ・ドン...」と高速のリズムでたたく音は、まるで坑内で採炭機械が激しく動いているようでもあります。そのリズムにあわせて、宮太鼓の打ち手がそれぞれソロで順番に演奏して行きます。
その演奏は、まさに「ヤマの男の激しき力」を表現したものであります。宮太鼓の打ち手が、いかに雄々しくヤマの男を表現した演奏ができているか見て下さい。そして、打ち手が全力で太鼓をたたいている姿を見て、かつての炭鉱(ヤマ)の男を彷彿させていると感じたら、出せる限りの大きな声で応援してください。夕張炭鉱太鼓は打ち手と観客が一つになって演奏ができたとき、本当の夕張炭鉱太鼓の曲となるのです。
適切な表現ではないかもしれませんが、夕張炭鉱太鼓はストリートパフォーマンス志向の夕張太鼓なのです。打ち手と観客が一つになって人々の活力を取り戻すことが、この太鼓に込められた願いなのだと思います。
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