第4章「夕張旭光(ぎょうこう)太鼓」

1)夕張旭光太鼓の謎

「夕張旭光太鼓」は夕張太鼓として3番目に作られた曲です。昭和49年に作られたこの曲は、これまでの祈願太鼓・炭鉱太鼓と曲調が異なります。

夕張太鼓の第3の曲として生まれたこの曲には、謎が隠されているのをご存知でしょうか?まずはその隠された謎について解き明かして行きます。


(1)「第1の謎」 ~ 曲紹介文に隠された謎「冷水山」

 夕張旭光太鼓の紹介文には。「この曲は昭和49年に作られ、冷水山からいずる朝日に、一日を祈り作られた曲です」とあります。なぜ冷水山の「ご来光」に祈ることを第3の曲にもって来なければならなかったのでしょうか?


 これを解くにはまた時代背景を整理する必要があります。夕張旭光太鼓ができる1年前の昭和48 年には夕張1鉱が閉山、昭和49年には福住の人車が廃止となり、夕張神社以北の地区の人々も激減した時期でありました(北炭系列の炭鉱以外でも、S48に三菱大夕張炭鉱が閉山となっています)。隧北には新2鉱と平和鉱しか残っていなく、その平和鉱も採炭状況は悪く閉山が迫っていました。翌年に新鉱の営業を控えていましたが、人々はそれに期待する一方で、商店などは住民が清水沢方面へ移動し、隧北が衰退することを危惧し商店や飲食店などは将来への不安が大きくなっていった時期でありました。

 しかし、昭和46,47年頃から大和鉱業が冷水山ではじめたスキー場は人気の観光スポットとなり、土日は6丁目の昭和グランドも近郊からの車で満車状態となっていました。 


  また、お盆にはスキー場から花火があがり、人々はレースイスキー場という新たな観光スポットに夕張の未来を期待していくようになっていました。さらにこの時期に丁末から万字方面へつながる道道夕張岩見沢線も開通し、隧北地区にとっては新たな希望であったに違いありません。きっと、隧北の人々は炭鉱の町の新たなる希望を「冷水山」に重ねて見ていたのだと思います。


 夕張太鼓の話にもどります。冷水山は、隧北地区からは、どこからでも山を見ることができる地域とって身近な山なのです。そして市街地から見て東に位置しているため、朝日は冷水山から昇って来るのです。隧北最後の炭鉱である平和鉱を最後まで安全な創業を続けと願う祈り、炭鉱の町を存続させるための新鉱への期待、そして新たな冷水山を中心とする観光への期待...このような期待と不安を冷水山から出る朝日への祈りに表現して第3の曲が生まれたのです。



(2)「第2の謎」 ~ 紹介文には「炭鉱」「ヤマの男」等の重要キーワードが入っていない!

 夕張旭光太鼓とこれまでの2曲との違は、これまでの2曲の紹介文に出てくる「炭鉱」や「ヤマの男」という炭鉱をイメージするキーワードがこの出てきません。これでは、夕張太鼓では無くなるのではないかと心配になるような紹介文であります。でも決して旭光太鼓は「炭鉱」や「ヤマの男」を表現する夕張太鼓の流れを変えたのでは無いのです。

 第1の謎でも書いたのですが、夕張が炭鉱の町から観光の町として期待と希望の芽がでてきた時期であるからこそ、地底深くの坑内で作業を行い無事地上に上がってきたときの感謝の気持ちを忘れることがないように、そして夕張は炭鉱の町であるということを忘れることの無いようにしなければならなかったのです。それを、冷水山からいずる朝日に祈ることにより、思い出してもらいたかったのだと思います。

  観光の目玉として期待するスキー場にしても、かつて大和鉱業が冷水山で炭鉱を掘っていたからこそスキー場ができたのであり、すべては炭鉱の恩恵でこの町が成り立っているのを人々が忘れる事のないようにという祈りを込めた曲が、この夕張旭光太鼓なのです。



3)「第3の謎」 ~ 曲名の謎。なぜ旭光は「ぎょっうこう」なのか?

 今回は、曲名の謎です。夕張太鼓ファンの皆さんなら、この曲を紹介する時に、夕張「ぎょっこう」太鼓と言っているのを聞いたことがあると思います。なぜ、旭光を「きょっこう」と言わずに「ぎょっこう」と言っていたのか、ずっと不思議でした。辞書を引いても「ぎょっこう」という読み方はありません。もしかして、間違っているのではないかと思い青木師匠に聞いたことがありました。その時は理由を話してくれなかったのですが、言い方は当時から「ぎょっこう」であると言っていました。このことは、この曲名を聞くたびに疑問となっていました。


   今回あらためて旭光太鼓の曲の紹介文と演奏を見てみると、そこに謎を解くヒントが隠されていることに気付いたのです。

 まず、「冷水山からいずる朝日に」との部分の解釈は、冷水山から朝日が出た瞬間のことではなく、「暁(あかつき)」からやがて朝日が昇る様子のことを言っていたのです。これは、旭光太鼓の序章を見ても、炭鉱町の夜が白々と明けて朝日が昇り、町が目覚めていく様子がわかります。


 そして、暁は音読みで「ぎょう」と読みます。少々強引ですが、旭光太鼓の旭光は、ただ朝日が昇る様子ではなく、夜明けから太陽が昇るまでの間のことを指して「暁」とかけて「ぎょっこう」と呼んでいたのではないでしょうか。

  さらに、なぜ朝日を表す言葉に「旭」という文字を使ったのかですが、これも推測なのですが夕張神社から冷水山に昇る朝日を見るには、夕張神社の上の丘に登る必要があったのではないでしょうか。この夕張神社の上の地区は「旭台」と呼ばれていた地区であります。「旭光」には、炭鉱マンがまだ夜の明けていない中、神社の上の旭台の丘に上り、冷水山から昇る朝日に祈る表現が込められていたのだと思います。



(4)夕張旭光太鼓の魅力と楽しみかた 

この曲の表現技法は、夕張祈願太鼓、夕張炭鉱太鼓で培ってきた炭鉱の太鼓をより洗練し高度なテクニックを要する演奏技法となっております。

 大太鼓の勇壮な響きと宮太鼓の打ち手の静の動きから始まるこの曲は、前曲の炭鉱太鼓と違い、2人の打ち手が対になって演奏を行います。序章は宮太鼓4人が直立し、やがて2人が片足を引いてゆっくりと下り、そしてまた登って来る姿は、まさに夜明け前の町を炭鉱マンが朝日に一日を祈るべく、静かに坂道を登っていくようでもあり、やがて冷水山から昇る朝日の様子と重なって見えるような表現技法となっています。


 その後、大太鼓の合図によって、宮太鼓の打ち手が速く軽やかなテンポの中で、2人1組で技を競い合うような演奏に入ります。それは、まるで坑内を連携プレーで採炭作業を行なっているかのようでもあり、かつてのツルハシやスコップだけの採炭と違い、機械を使った採炭を表現しているかのような演奏技法となっております。

 打ち手の演奏するリズムもこれまでの夕張太鼓の演奏技法を発展させ、より高度なリズムやバチさばきとなっておりますが、そのバチさばきを2人がぶつけあい、阿吽の呼吸で演奏することにより、より強いヤマの男の表現となっているのです。

 その演奏技法は、中盤にかけてさらに激しくなります。2人1組の演奏の次に大太鼓が入り、その後、全員で縁を大きく鳴らして怒涛の如く複雑な掛け合いの演奏を行います。「ドン・チャッ」から「ドン・チャ・ラ・ドン・チャ・ラ・ドン・チャ・ラ・ドン・チャラ・ドン」に続く素早いバチさばきと阿吽の呼吸による演奏が、この曲の最大の見所です。特に、「ドン・チャ・ラ」…は、縁を力まず軽快に叩くことができているのか、そして縁を叩いた右手のバチが顔の近くまで振り上げられ、そして垂直に太鼓目掛けて「ドン」と振り下ろすことができているのかが見所ポイントです。このバチさばきがきちんとできるようになれば、夕張太鼓の打ち方をマスターできていると言ってもいいのではないでしょうか。


 他の太鼓団体も、太鼓の縁と太鼓の皮を素早く叩く技法はあるのですが、素早さを求めるあまり、太鼓の皮をバチで擦ってしまっております(たぶんそのような技法なのかもしれませんが)。私は太鼓演奏については素人なので詳しいことはわかりませんが、バチで太鼓の皮を擦り上げる技法では、皮を痛めることになり、あまり良い技法ではないのではないかと思っております。


 少し脱線しますが、夕張太鼓では、太鼓の皮を擦るように叩く技法はありません。激しくバチを振り下ろすときや、左手を連続して大きく円を描くように打つ技法のときも、常にバチが太鼓の皮を打つ時は擦らずにきちんと叩くのが夕張太鼓流なのだと聞かされました。この技法は伝承太鼓の基礎となるものでありますので、昔から練習ではかなりしっかりとたたきこまれております。 


  話を戻します。激しい掛け合いのバチさばきのあとは、大太鼓の見せ場です。残された力を振り絞って、大太鼓がロールしますので大太鼓ファンはここに注目して下さい。さぁ、最後の見せ場です。大太鼓の「ド・ドン・コ・ドン・ドン・ドン」の合図のもとに2人1組みから全員がたたみ掛けるように演奏します。この終章があることによって、旭光太鼓が夕張太鼓らしい素晴らしい曲となっていることを存分に味わって下さい。

夕張太鼓保存会「竜花」支援サイト by 成人部

夕張の炭鉱夫の心意気を継承するために。 半世紀続く「夕張太鼓」とは。

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