第5章「夕張男太鼓」
「夕張男太鼓」は、夕張太鼓の集大成と言っても過言ではない曲です。この曲は昭和52年に作られ、炭鉱で働く炭鉱マンを表現して作られた曲と紹介されます。まずは夕張男太鼓の時代背景を整理します。
1)夕張男太鼓が生まれた背景
昭和52 年は、隧北最後の炭鉱となった北炭夕張新第2 炭鉱閉山した年です。そして、夕張の町は道道札幌夕張線や道道夕張岩見沢線のポテンシャルを利用して、冬のスキー場とともに夏場の観光スポットとして、石炭の歴史村(S53着工)や丁未風致公園(S53完成)が計画・整備が行われ、夕張はますます炭鉱の町から観光の町へ移行していくことが顕著になってきた時期でした。
それは、夕張から炭鉱の生活が消えて行くことであり、このままでは人々は炭鉱を忘れてしまうのではと危惧するほど、観光への期待と開発の波は大きいものでありました。 創設から炭鉱町が再び活気を取り戻し人々が元気に暮らして行けるようにと演奏を行ってきた夕張太鼓は、演奏曲も増え、打ち手の技術も向上し、ようやく地域に根付いた活動ができるようになって来ましたが、閉山とともに炭鉱マンの打ち手も減少し今後の活動が心配されるようになっていました。
夕張太鼓第4の曲となる夕張男太鼓は、そのような中で作成されたのです。それは、これまで夕張太鼓の集大成の曲といえるものであります。
2)夕張男太鼓とはどのような曲なのか
夕張太鼓第4の曲となる夕張男太鼓は、これまで夕張太鼓の集大成の曲といえるものであります。夕張男太鼓の曲のコンセプトは「坑内で働く炭鉱マンを表現して作られた曲」と単純明快であるように思われますが、一曲の中で炭鉱マンの姿を表現する中に、これまでの祈願太鼓、炭鉱太鼓、旭光太鼓で表現してきた、炭鉱の安全と感謝をする気持ちや祈願、炭鉱町活力を取り戻すための祈り、そして過酷な労働条件の坑内へ入って働く炭鉱マンの心情などが、打ち手の体に刷り込まれていて、はじめてこの曲をきちんと演奏できるようになるのです。
また、演奏技法もこれまでの技法を高度に発展させたものとなっており、打ち手にとっては非常に難しく、かつて青木先生が「夕張太鼓の曲の中では、リズムの強弱・力強さの表現、演奏が一番難しく、打ち手には一番は激しく厳しい曲であり、演奏できるようになるには、しっかり練習を積まなければならない曲」と言っておりました。
一方で観客にとっては見ごたえたっぷりの曲となっており、演奏を見るのが非常に楽しみな曲でもあります。
~休憩~ coffee break2
夕張太鼓における炭鉱(ヤマ)の男とは?
夕張男太鼓は、炭鉱(ヤマ)の男の力強さを表現した曲であることは、ご存知のとおりですが、では何時の時代の炭鉱の男を表現したのだと思いますか? それを探るために採炭道具の事を少し書きたいと思います。
炭鉱も最初に採炭を始めた頃と最後に開発された新鉱では、そこで働く炭鉱マンの姿や、道具も様々に変化してきました。最初に開抗した頃から戦前までは人力で石炭を掘っており先山(さきやま)と後山(あとやま)が一組で働いていました。
先山はツルハシやタガネで穴を掘り、時には発破を使い石炭を切り崩していったのです。後山は、掘った石炭を運ぶのが主な仕事で、磐箱を背負ったり箱形の運搬道具を使いで運搬するという過酷な現場でした。
その後、採炭は人力から馬で炭車を引く運搬に変わり、戦中・戦後には採炭機械も電力化・大型化が進み、コールピック(手持の石炭を突き崩す機械)からドラムカッター(大型の採炭機械)で石炭を掘るように変わり、運搬もコンベアーを使用するようになっていったのです。
夕張男太鼓の表現を見ると自らの手で石炭を掘っていく炭鉱マンの姿が見てとれます。それは、この後に説明する2つのパートにわかれて演奏する部分が、まさに先山と後山を表現したようでもあります。
3)夕張男太鼓の魅力と楽しみ方かた
夕張男太鼓はシンプルなコンセプトの中に、これまでの夕張太鼓の思想と技法が盛り込まれた曲となっております。それはまさに夕張太鼓の集大成と言えるものであり、原点回帰の曲となっております。 夕張男太鼓もこれまでの夕張太鼓の曲と同様に大太鼓から入ります。大太鼓2名の神聖な響きからはじまる音色は、見ている観客をいきなり坑内の炭鉱へと誘います。大太鼓の魅力を感じることができる躍動感のある序章となっております。
また、大太鼓が力強い音で打ち合っている間、宮太鼓の打ち手は腰を低くして構え、静かにじっと大太鼓の音に耳を傾けております。さながらトロッコに乗り、坑内深くの作業場に行く炭鉱マンの姿のようでもあり、静の中にも炭鉱の男の力強さが感じ取れる序章であります。これから始まる坑内での命をかけた仕事に挑む男の表情が見るはずです。
序章~大太鼓の激しい打ち合いの終わりに、「ド・ドーン、ド・ドーン、ド・ドーン、ド・ドーン、ドン…」という合図ともとれる大太鼓の音が入ります。3回目の「ド・ドーン」で宮太鼓打ち手は右足を後ろに引き、同時に右手も後ろに伸ばし4回目の「ド・ドーン」が終わると一気に体前に持ってきて、太鼓の上にバチを振り上げます。そして全員が両手で「ドン」と力強く太鼓を叩き、すぐ「ドン・ド・コ、ドン・ド・コ、ドン・ド・コ、ドン・ド・コ…」とリズムに入るのです。宮太鼓の見どころの第1ポイントはここです。
後ろに一旦下がってから一気にバチを振り上げ、そして両手で全力で振り下ろすところは、最高難度の技法です。観客の皆さんは、右手を後ろに引いて下がったところでバチを握る手にギュッと力を入れ、一気に頭の前上まで振り上げ、そして力をためて太鼓目掛けて振り下ろす一連の表現を見逃さないようにして下さい。それはまるで重いツルハシをギュッと握りしめて、勢いをつけて一気に振り下ろす炭鉱マンの姿の力強さを見ているかのようであります。
宮太鼓の打ち手が一旦後ろに下がり勢いを付け、力をためて力強く振り下ろした後も、見せ場は続きます。大太鼓の合図で、「ド・ドン・コ」「ド・コ」「ドン・ド・コ」、「ド・ドン・コ」「ド・コ」「ド・コ」、「ド・ドン・コ」「ドン」「ドン」「ドン」と、夕張太鼓独特の鞭がしなるようなバチさばきで、力強く太鼓を打ちます(表現は悪いですが、昔青木先生が小ヤクザのような動きと言ってた事を思い出します)。
その後、「コ・ドン」「コ・ドン・コ・ドン・ドン」「ド・コ・ド・コ」「コ・ドン・コ・ドン・ドン」…とさらに激しく全身をダイナミックに使うバチさばきが続きます。
さらに、炭鉱太鼓や旭光太鼓で見られた、宮太鼓打ち手が2人+2人で交互に打ち合うパートや、1人ずつ右足を大きく後ろへ引き、勢いを付けて全身で「コ・ドン」「ドン・ド・コ・ドン・ドン」「コ」「カッ」と打つバチさばきは、第2の見どころポイントです。打ち手が一人ずつ演奏するパートです。特に最後に太鼓の縁を両手で「カッ」と打ち鳴らすところは簡単そうですが、綺麗に高く乾いた音を出すのが難しい技法です。ぜひその部分に注目して見て下さい。
そのあとは、大太鼓の打ち合です。夕張男太鼓は大太鼓も見せ場が多く、このパートでも大太鼓のダイナミックなバチさばきが見られます。「ド・ドン・コ・ドン」「ド・ドン・コ・ドン」「ドン」...と大太鼓2人が交互に繰り返し、力強く打ち鳴らす姿はまさに勇壮!! 夕張太鼓の魂の叫びを楽しみましょう。
中盤の見どころは、宮太鼓打ち手が2つのパートに分かれての演奏です。昔、人力で石炭を掘っていた頃は、力強いリズムをたたく「先山」パートと、鞭のようにしなやかなバチさばきを見せる「後山」パートに分かれての演奏です(もちろん私が勝手に呼び名を付けただけです。誤解のないように…)。
大太鼓の演奏が徐々に低くなり静かにリズムを刻むと、そのタイミングを見計らって、2番太鼓と3番太鼓(観客から見て右手が上手です。太鼓も上手から1番、2番...と呼んでいます)が呼吸を合わせて一度後ろに下がり、戻ってから小さく「ドン・ド・コ・ドン・ド・コ...」とリズムをたたき始め徐々に大きなリズム打ちになっていきます。
この部分は、全てが見所ポイントなのですが、通の見所としては、一番最初に下がる部分と、小さく「ドン・ド・コ…」と音を出す瞬間を見てほしいです。現在は多くの打ち手でたたくので、下がるタイミングやリズムをたたくタイミングは、「ソイヤ!」と声を出しますが、以前は打ち手の呼吸で下がったり、たたき始めたりしてました。これは、簡単なようでとても難しい技法なのです。もちろん次に続く1番と4番太鼓は、お互いの姿が見えないので、4番太鼓の動きを感じて(動きを見てではありません)1番太鼓が同時に動き出すという高度なテクニックを要する技法です。打ち手側も緊張するところですが、観客側としては、暗い坑内で周りがよく見えなくても、阿吽の呼吸で作業を行うかの如く、静から動の展開に入るバチさばきを堪能したいものです♪
その後、最初に打ち始めた2・3番太鼓はリズムの強弱を繰り返しながら、大太鼓の演奏を聞きながら、「ドン・ド・コ…」のリズムを力強く打ち鳴らします。
頭の上まで上げるバチさばきは、同じリズムで肉体の限界に近いスピートで打ち下ろすため、鍛えた体でも腕がパンパンになり、かなり辛い演奏なのです。
その演奏も、炭鉱マンが先山でタガネや金槌を力の限り振りかざし、歯を食いしばって作業をしている姿を再現しているのです。
そのことからすると、苦しく、険しい顔で演奏していても何ら表現としては間違っていないのです。むしろ軽快なバチさばきや笑顔で演奏することは、この部分の表現としてはおかしいので、見ている方も、もっと顔を上げればいいのにとか、笑顔で演奏すればいいのになんて思わないで下さい。
次に1・4番太鼓の「後山」パートですが、先山パートとは違い、鞭のようにしなるバチさばきで、ダイナミックに動く姿は、打ち手にとっても最高の見せ場であります。「コ・ドン・コ・ドン・ドン…」というリズムを円を描きながらスイングするようにだんだんと強く、大きな音となっていきます。先山が切り出した石炭を素早く運ぶ姿が表現されております。
そして、先山と後山をつなぐのが大太鼓の演奏です。大太鼓もまた、炭鉱で働く男の姿をあらわした演奏なのです。宮太鼓が坑内で働く炭鉱マンの姿を表現しているとすれば、大太鼓はその炭鉱マンの力強いイメージを大太鼓で表しております。この大太鼓と宮太鼓の演奏が合わさることによって、力強い炭鉱マンの姿が描き出されるのです。
宮太鼓と大太鼓の絡み合う演奏が終わると、いよいよ終章に入ります♪
終章、大太鼓、宮太鼓の打ち手全員で、「ドン」「コン」「コ」「ドン」、「ド」「コン」「コン」「コ」「ドン」…と全身を使ってダイナミックなバチさばきでの演奏です。 この部分は先程の先山が「タガネ」や「金槌」で採炭しているという表現ではなく、「ツルハシ」で作業をしている様子を表現したものと思われます。全員で太鼓を打ち鳴らす姿は圧巻。見所ポイントです。
ここまで来ると打ち手の体力も限界に近いので、本当に最後の力を振り絞って演奏しているのです。観客の皆さんもここまで全力で演奏してきた、打ち手=炭鉱マンの姿をしっかりと目に焼き付けて下さい。そして演奏が終わった際には、惜しみない拍手を送りましょう。
余談ですが、夕張太鼓は1曲を体力の続く限り全力で演奏する太鼓です。したがって、1曲が終わると打ち手の体力はかなり消耗し、立っているのがやっとという状態です。どうかヘトヘトになった打ち手に惜しみない拍手を送ってこの曲を締めくくりましょう。
4)夕張男太鼓・全国へ!!そして…
ここまで、夕張太鼓の集大成と言える曲、「夕張男太鼓」の魅力と楽しみ方について語ってきましたが、ここでもう一度、この時代の夕張太鼓を取り巻く背景について整理します。
夕張男太鼓ができた昭和52年から2年が経過したとき、夕張太鼓は「夕張太鼓の会」となりました。そして、この頃は打ち手も炭鉱マンから子供を中心とした打ち手に代わっていったのです。さらに、この年は夕張太鼓として大きな出来事がありました。それは、兵庫県亀山市で開催された、「全国乱れ打ち競演太鼓大会」に出場し、夕張男太鼓を演奏して全国3位に入賞したのです。また、その年は「全国こども郷土芸能大会(奈良県)」にも参加するなど、夕張太鼓が全国で名を馳せた年でもありました。
現在、ほろむい太鼓同志会や他の団体の指導でご活躍されております草野広志先生は、夕張太鼓の発足時に小学生の打ち手でご活躍され、昭和54年の全国乱れ打ち競演大会に出場した打ち手のひとりであります。まさに夕張太鼓の創設期を支えられた方なのです。 本間宮司が創設した夕張太鼓は、地域・風土から独特の演奏技法が生まれ、地域を見守る神社と炭鉱マンの情熱によって、わずか数年で伝統文化と呼べるまで発展してきました。その演奏技法は、夕張男太鼓で完成されたのです。
北海道の伝統太鼓は石川県や九州の伝統太鼓と比較にならないと考える方は、いまでも少なくないと思います。しかし、夕張太鼓には明治の頃に夕張の地に石炭が発見され炭鉱町ができ、人々が炭鉱とともに生活してきた壮絶な歴史が刻まれているのです。曲のひとつひとつに、本間宮司の思いや炭鉱マンの打ち手の情熱が刻み込まれている夕張太鼓は、炭鉱の歴史や文化を保存する誇るべき伝統芸能なのです。今後も、夕張太鼓結成当時の心意気を忘れず、地域の郷土芸能として、心に響きわたる演奏を見せて下さい。
~休憩~ coffee break3 太鼓の音色「ドン」と「コ」について
これまで書いてきた中には、太鼓の音の表現で「ドン」や「コ」などが出てきますが、その説明をしていませんでしたので少し補足を...「ドン」は右手で太鼓を強くたたく表現、「ド」は同じく右手ですが「ドン」よりも強くないたたき方として書いてます。また、「コ」は左手で太鼓をたたく表現、「カ」は太鼓の縁を打つ音です。力強さとか微妙なタイミング等は言い表せないので、演奏を聞いて判断して下さい。
~休憩~ coffee break4 夕張太鼓ファンなら模擬坑で炭鉱体験を!
夕張太鼓ファンなら是非、石炭博物館での坑内体験をお勧めします。石炭博物館は炭鉱、坑内を体験できる最高の場所なのです。坑内で働くということはどんなに辛く、過酷で、そして強靭な体力と精神力が必要であったのかが感じれるはずです。そして、そこで働く人々のために夕張太鼓が生まれたことがわかって頂けるのではないかと思っております。坑内体験をすると夕張太鼓がもっと好きになること間違い無しです。 脱線しますが、少し前のTVで石炭博物館の見学ツアーを負の遺産ツアーのような言い方をしていました。石炭博物館は世界でも有数の炭鉱体験博物館であり、夕張が世界に誇れるものなのに何で負の遺産扱いされなければならないのでしょうか。悲しいですね。
~休憩~ coffee break5
ゆうばり、食うばり、坂ばかり、ドカンくれば死ぬばかり♪
私の親父は、私が生まれる直前まで夕張第1鉱で働いておりました。第1鉱は昭和40年2月の大雪の日に大規模な炭鉱事故があり、62名が無くなった大惨事でした。その日、親父は用事があり別の人に代わってもらい坑内には入りませんでした...それから親父は炭鉱を辞め、私が生まれる前後は無職だったそうです。あまり多くを語らなかった親父でしたが炭鉱の話をするときは、悲しい表情であった事を覚えております。そんな親父が晩年、何よりも楽しみにしていたのが夕張太鼓の演奏でした。子供たちが力いっぱいバチを振り、演奏する姿をみて喜んでいた親父を見て、何だか私も嬉しくなっていました。
私の親父のように、夕張太鼓を見て下さる高齢者の方のほとんどは、炭鉱は辛く悲しい思い出があるのだと思います。それでも、夕張太鼓を見てかつての炭鉱が栄えていた頃の事や、炭鉱で働いていた頃の事、家族の事などを思い出して、涙を流して見て下さる方を何人も見てきました。私は夕張太鼓の演奏を見るのと同じくらい、太鼓を見て喜んでくれる人々を見るのが好きです!
夕張太鼓は、炭鉱の辛く悲しい宿命を背負いながら、炭鉱の安全と発展のため、そしてそこで働く人のための太鼓として生まれて来たのです。
しかし、悲しい過去を表現するのでなく、辛くても頑張って生きていく炭鉱マンを表現することが、夕張太鼓の魅力であります。
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